Toshiko Kamada
悟り
学生の頃「悟りたい」なんていうと、しばらくじっと見つめられて、何かに洗脳されたんじゃないかと友人が心配してくれたものだ。ところが韓国に留学後、言葉がわかるようになってくると「悟り」について喫茶店で普通に語り合ったりする光景によく出会った。1980年代中盤のこと。時代なのか、たまたまそういう人との縁があったのか、私は「悟り」仲間とつるんで山野へ出かけ、呼吸法や瞑想を習い、語り合った。楽しかった。
が、語り合っても悟れない。大学院も中退、悟りも道半ばどころか幾生も先のことなのかもと落胆して帰国した私は、<韓国茶と精神世界の本ハヌル>という小さな茶店をひらいた。引き続きあやしがられながらも、徳島で子育て中心の生活を始め、禅よろしく日々の実践に徹しようとしてみたが、「悟りたい」願望がいや増すばかり。その頃、韓国の瞑想仲間から「アバター、、、いいよ」と一言の国際電話。今思えば、全く何も内容を知らないままアバターを受講した。内なる声だけを信じて。23年前。
悟り、覚醒を求める人には、アバターは最良の道具だ。
ここまでの実践の種類やバックグラウンドにかかわらず。
あらゆるスピリチュアルな学びや実践、あるいは科学的なトレーニング、教育や信条を超えて、機能する。そして終わりもない。