Toshiko Kamada
過去にかたをつける
我流には盲点がある。
自分とは別のやり方や考え方には、本当に価値があると、ちょっとした衝撃を感じた出来事。
私は子供の時から、整理整頓が得意だと信じてきた。
家の中で、自分が自由に使えるスペースが与えられると、そのスペースを、自分なりに区切り、分類してものを収め、工夫して美しくし、その秩序が保たれるようにする、ということが好きだった。
無秩序な空間が、私が作ったルールによって、秩序立てられていく快感。
その開放感と征服感。
片付いていない場所を見ると、この快感を感じたい欲求に突き動かされて、つい片付け始めてしまう。
そして誰かから綺麗になったわねえと賞賛をもらい、得意顔で整理整頓なら任せて!と思って生きてきた。
部屋が片付けられないという悩みを聞くと、心の中で上から目線の私が、どうしてそれがそんなに難しいの?とばかにしているところがあった。全く共感できないでいた。
部屋の片付けと、心の中の片付けとは似ているのだという話はあちこちでされている。
そんな時、なおさら自分にはできていると得意げにその観点を受け取っていたものだ。
こんまりこと近藤麻理恵さんの片付け法というものは話題になっているので、断片的に知っていたが、片付けは得意と思い込んでいるものだから、他の観点を受け入れる謙虚な気持ちがゼロの私。ところが、先日、どういうわけか、ふと心の隙間に試してみたいという気持ちが生まれ、近藤さんの勧めるやり方で、片付けてみた。
私の片付け史上で初めて人の意見を取り入れた瞬間。
やってみたら彼女の仕事が評価されている理由がわかった気がする。
これもやはり意識の変容を確かに起こすための一つの方法なのだなと。
意識を変えるから、物理的空間も変わる、そう、そして意識を変えることを教えるのが私の仕事なのだ。
変化を起こすには、外側の何かを動かすのではなくて、まず意識を変えるのが先だともちろん私は信じている、と思い込んでいた。
が、なんと片付けという分野は、私にとって、それこそ盲点だった。こと片付けに関しては、意識を変えるから空間が変わると、思っていなかった!ということに本当にびっくりした。私は片付けの仕方を知っているから、片付けられるのだと思い込んでいた。
そうびっくりしながら、片付けをさらに進める間に、もう一つびっくりしたことがある。
私が片付けていると思ってやってきたことは、本当は「片付け」ではなかったのだということだ。
彼女のオススメのやり方は、ものの種類別に片付けるのだが、そうすると、簡単に片付けられる種類と、簡単に片付けられない種類があることに気づいた。明らかに、そのものに向かい合ったときの、自分の心の状態が違うのだ。
私が固まってしまったのは、仕事の書類やノート類の山の前。自称片付けが得意の私は、仕事の書類も割と頻繁に整理整頓している。そう、整理整頓はしているのだけど、片付けていなかったのだ。
片付ける、とは過去に片(かた)をつけることだとこんまりさん。
これが、私の片付けに欠落していたことだった。
私の整理整頓は、スペースに区切りをつけて、入れる場所を作り、そこに分類したものを入れていく。ちゃんとやれば、もちろん物自体はどこかに収納されて片付く。でも、そもそもその物は必要なものなのか、いつなんのために使うのか、きちんと吟味されたことがないまま、片付けのたびにあなたの居場所はここよ、と確認されるだけで、力を発揮するチャンスのないまま、命を全うしたと言われることもないまま、またその場に収まっている。つまり、過去にかたがついていない。
私は座り込んでしまった書類とノートの山の前で、しばらく呆然とした後で、やっとそのことに気がついた。
ここは、かたがついてないものがいっぱい埋まっているのだと。
でもそうとわかれば、希望が見えてきた。ここに埋まっている片付いていない過去にかたをつけて、今、何をしたいのか、自分が本当に必要なものなのかを感じて決めればいいのだ。山のような紙類を、今本当にいるものといらないものに分けたら、ほとんどいらないものだった。いらないものの山を処分して、突如頭の中に広〜いスペースができた。
紙も処分したが、私の過去への執着を処分したのだ。
すると、急にこれをやろう!と新しいアイデアがひらめいた。面白い!
私の片付けが進化した記念すべき日に、こんまりさんに感謝するとともに、私の小さなお部屋にもありがとうと言ってみた。自分の意識の表れとして、目に見える形でそこにいてくれて。小さな部屋が小宇宙のように感じられ、意識のおもしろさをますます感じるのだった。