Toshiko Kamada
裏切られたと思う時、私が先に信じることをやめている
私は忠誠心があると、思い込んでいたのだけれど、あれまあ、と最近その見方がひっくり返る気づきの連続だ。
忠誠心というと、組織や権威への忠誠を意味するときが多いかもしれない。その組織などが持つ使命や大義に、どれくらい自分は忠誠を誓えるのか、という風に。そして一度こっそりとでも誓った忠誠が完璧でなくなると、忠誠心がないと自他ともに責めてしまう。
そのあとに落ち着く先は、忠誠心が持てないのは、向こうが私を裏切ったからだ、そしてほら、ここにその証拠があるという気持ち。
私も、まさにあの人やこの人や、あの組織やこの権威に、そんな風に感じてきたのだが、そんな風に感じていると認めるのは、自分の未熟さをさらけ出すようで、情けない。そこで忠誠心を持っていると自分に言い聞かせるのだが、それにも限界がある。
そしてある日、その見せかけがボロボロとメッキのように剥がれて、最初っから認めておけばよかったものをと、ほろ苦い思いを味わいながら、ようやく自分の裏切りを認めるのだった。
私が先にそれを信じることをやめたから、裏切ったから、裏切られたと感じるのだなと。
その上、裏切りは、組織や権威、他人や大事な物への裏切りだと最初は見えるけれど、よく感じてみると、外ではなく、自分の内側の裏切りなのだなあと感じ始めた。
自分が信じたものを、真心を尽くして信じること。
自分の真心への忠誠。
自分が、それを裏切っていると、自分が本当は気づいているのだ。
疑いが出てきた瞬間に、向こうのせいだと思って、私が信じることをやめるか、
「私の疑い」を自分のものとして認め、それを創り出しているものを自分の中に見つけるか。
これは運命の分かれ道だ〜。
そして、この「自分が信じたものを、真心を尽くして信じること」が、現実の中で何かを創り出したり、達成したりすることを可能にする鍵なのではないかと、感じ始めている立春の朝。
*この話題に興味のある方は、関連書籍「正直さについての内緒話」(『リビング・デリバレイトリー』ハリー・パルマーより)を楽しまれることと思います。
本の詳細は https://www.dawnavatar.com/product-page/リビング-デリバレリトリー