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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

私の中の神事「岡本太郎の沖縄」を見て


このところ岡本太郎という存在を感じ続けている。

というよりも、彼が触発する私の中にあるものを感じ続けている。

先日、映画「太陽の塔」を見て、今日は映画「岡本太郎の沖縄」を見た。

全編通して良かったが、衝撃がまだ体に残っている。

特に、久高島の神事イザイホーと神官ノロの場面だ。


イザイホーという神事は、知識や写真では知っていたが、動画を見たのは初めてだ。

白黒のそのだいぶ傷んだフィルムが映し出した神事の最中の動画に鳥肌がたった。

私がそこにいたのではないかと感じるほどの臨場感で迫ってきたのだが、半日以上経った今も身内深く振動が残っている。

神事を行う女性たちが、日常とは違う意識の次元にいる感じが、その古いフィルムからも強烈に伝わってくるのだ。


私は一気に興奮しながらも、頭の片隅で捉えていたのは、7回、神女たちが、神殿の内と外を出たり入ったりしたということ。

神女たちは、この世とあの世の間を、7つの橋を渡って、最後にあの世とされている神殿の中にこもるのだが、それまでの道のりとして、神殿の中へ入っては消え、また出てくるというのを7回繰り返していた。手を叩き、声をあげ、走りながらである。

そのバイブレーションは、日常のものではなかった。


儀式の民俗学的解釈は横におかせてもらって、私には、彼女たちが小屋から出たり入ったりするたびに、ますます歓喜と力強さを増していくように見えた。そして、それは私が、アバターのテクニックを使いながら、意識の中で体験していることを思い起こさせた。境界を超えて、創造の縁を出たり入ったりする力が、アバターが育むものの大事な一つだからだ。


岡本太郎が撮った、最高神女のノロの顔写真が、映画を通してその中心に据えられているのだが、彼女の表情と眼差しが、この神事が行なっているものを映し出しているようだ。

「昔は、どう生きるかが大事だったが、今はどう生活するかが大事でしょ?」というノロの子孫の言葉がずしりとくる。

どう生きるか。家族や島を守り、よりよく生きること。そして自分という存在の神聖さを大事に感じ、他者の存在の神聖さを大事に感じ、それを向上させること、何があってもより正直に、ごまかさずに生きること。そのための神事であり、神女たちであるのだろう。


私が、アバターを実践することで取り組んでるのも、それと同じなのではないかと、今日1日感じている。久高島のノロは途絶えてしまった。いいようのない寂しさがある。それでも人が進もうとしている不変の方向というものがあるように思える。ノロが神官として力を発揮していた時代から、私たちが、人類として受け継いで、未来の世代により良い形で渡すもの。


私たちの中の神聖で力強い、そして慈しみのある、他者や世界と共存できる性質を発達させ、その繋がりとしての集合意識と地球を次の世代に手渡すこと。私はそれがしたくて、アバターを多くの人に使ってもらうことに取り組んでいるのだ、と改めて確認する。


久高島ノロの澄んだ、慈しみぶかくも世界を見通した、あの眼差し。私の中で行なっていることも、一つの神事なのではないかと言われているように感じる。そして、全てを神聖化する努力という意味で、きっとそうなのだ。

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