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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

神聖にあつかう力

私は最近、俳句や短歌を詠んでみる。それは私にとっては、心が動いた一瞬を大事に言葉にする興味ぶかいプロセスで、そこにはその瞬間を神聖にあつかうという感覚がある。

人をインスパイヤーする芸術の数々は、そういう神聖化の力がそこに含まれているように感じる。普通でないものにする努力。

茶道をおしえていた祖母と茶室で遊んだ子どもの頃の記憶がある。私には、お茶碗や布切れや一片の木切れを、とてつもなく大事なものとしてあつかう祖母の気迫が、ものに命を宿らせるように感じられた。そして実際、その物はとっても魅力的なものになって私を魅了した。神聖化することの原体験だ。

もうすぐ伊勢志摩で秋のアバターコースが始まる。伊勢神宮に参った思い出や数年前の式年遷宮のニュースの記憶と共に、神聖にあつかうことが人や世界に与える大きな影響をいろいろと思い巡らしてみた。

例えば伊勢神宮に古代から注がれてきた神聖にあつかうすべての努力がつくりだす非凡なエネルギー。それは権力や武力とは全く次元の違う力だ。

神聖に扱うこと、冒涜することの影響は、言葉や文化を超えて、人の魂がどこかで知っているもの。神聖にあつかうことは人の魂を目覚めさせ、非凡な力を発揮させることも、冒涜によって全てが力を失い、すさんでいくことも。

私はこれからの時代、子供たち、孫たちの時代に、この神聖化する力の花が咲き続けるようにと思い、意図し、そのために自分にできる最良のことをしたいと思う。

私のライフワークであるアバターは、その意味で人生を、人類を、この世界を神聖にあつかう非凡な技術であり、私の個人的な感覚では「芸術」である。

意図的に生きることを可能にし、人を目覚めさせ、世界を良くする並外れた芸術である。

(これは筆者の個人的観点であり、アバターを管理するスターズエッジ社の見解ではありません。)

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