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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

批判するしくみ:敵と戦うエネルギーを他に使う方法を学ぶ



世界から「批判」というものが、全くなくなったら、どんな感じでしょう?


これが正しいとか、あれが間違っているとか、そういう応酬が全くない世界。

心の中でも全くそういう気持ちがなくなったとしたら。そんなことは可能でしょうか?

世界が向かっている方向は、そんな方向でしょうか?


私は、この世界で今生きている私たちは、批判することに慣れっこになっていると思います。

マスコミやネット上に、また日々の会話の中に、批判が存在することに慣れて、受け入れているように思います。

気分を害されることや、嫌な気分になること、あるいは反対にそれによって気分が高揚することがあっても、

どこか人間というのはそういうものだと受け入れているようなところがあるように思います。


人生の中のたくさんの時間とエネルギーを、この、目に見える、あるいは目に見えない敵と戦うことに費やしているのではないか。でもなんででしょう?「人のふり見て我がふり直せ」とか「自分のことを棚に上げて人のことを非難するな」とか倫理観に基づくいろいろな助言が存在しますが、それでもおもわず批判したり、批判に同調したり、そういう気持ちはしょうがなく起こるのも。また、批判する人が全くいなくなったら何かに歯止めが効かなくなると思っていたりするのではないでしょうか。正当な批判というものが存在するという感覚。


私は、批判にたくさんのエネルギーを注いでいる一番の理由は、なぜ人は批判をするのか、なぜ自分はそれを批判したいのか、という仕組みについて、きちんと学ぶ機会がないからだと思います。そして、批判が自分の中に起こった時に、批判する以外の別の選択肢があって、批判をそれに変えられるという視点と、その方法を学ぶ機会がないからではないかと思っています。


もし、その批判の仕組みを学べて、それを扱い、そこに使っていたエネルギーを別のことに使えるように、自分の意識を動かせる方法があるとしたら、学びたいでしょうか?


そしてその方法はあるし、その気持ちさえあれば、誰でも学んで身につけることのできるものです。私は、自分がそれを知って学んだときに、なんと!これをみんなが学べば世界はどうなるだろうか!とものすごい希望を感じました。


興味のある方は是非、アバターの練習を是非経験してください。

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