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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

心の器を作るということ


私たちの知覚能力は、どこまで進化できるのだろうか?

視覚、聴覚の衰えを感じる年頃の私は、それ以外の機能をフル稼働したら人はどこまで感じることができるのか、そんな妄想をすることもある。特に五感以外の知覚能力を働かせることについて。


体で感じるものを超えて、私たちは実際いろんなことを感じているけれど、それは一体どうやって何を感じているのか、定かでないことが多いのではないだろうか。私自身は、長年いろんな感じを感じながら、その感じに翻弄されながら、そしてそれが生きていくということだと思いながら過ごしてきた。


<感じ>の中には、自分の感情、自分の思い、体の感覚、自分の外にある物体や自然の感じ、他の人の発しているもの、場の感じ、イメージ、記憶、雰囲気、など実にいろんなものが、渾然一体となっている。どこの知覚器官を使って感じているのか、どこにあるものなのかに関係なく、自分にとって、それらは全部<感じ>だった。内も外もなく、感じたものに反応しながら、あっちへぶつかりこっちへぶつかり、進んでいるのか、戻っているのか、よくわからない時間をたくさん過ごしてきた。


心というものは、感情と思考のごちゃ混ぜになったごった煮汁のようなもので、その中で必死で泳いでいるのが、私だった。


ところで、ごった煮汁は一体何に入っているのか?


そこに<器>というものがある、と気づいたのは人生半ばにさしかかった頃。

<感じる>ことの主体になることを練習して学び、<感じ>だと思ってきたものの中には、自分の心の中のものもあれば、外にあるもの自体の感じもあれば、それに心の中のものを重ねて感じていることもあれば、いろんな対象があることを学んだ。私は、<感じ>の海のような煮汁の中を泳ぎまわる人から、それが入っている器の外に立つ人になれることを学んだ。つまり器だって作ることができるのだと学んだのだ。ごった煮汁の宇宙の住民から、器作家への転身だ。これが、なかなかな大転身だった。


まず、そもそも器のなかにいたのかと気づいたのだが、この器がもうずっと昔に(自分で!)作ったままだから、誰が作ったのかも忘れてしまっていた。そしてそこに里芋だの、大根だの、こんにゃくだの、ごぼうだの、自分で入れたはずなんだけど、もう何を作ろうとしていたのかさえ、忘れてしまっていて、ごった煮の中で何かを作っているつもりなんだけど、行く末も全貌も全く見えなくなっていた。


ところが、いざ器の縁に立ってみると、まあ、今では使いたい器でも、食べたい料理でもないものにこだわっていたことがわかって、一から作り直したくなったのだ。


どんなものを器に入れて味わいたいのか、つまり人生でどんな感じを経験したいのか、私たちは自分で決めることができるのだ。ところで、それをいただくには器、つまり私たちの意識というものがいるのだが、いっつも同じ器しかないと思っていると、たとえ何を入れるか自分で決めると頑張っても、味わいはそんなに変わらない。自分という人間、自分の人生は、だいたいこんな感じだと受け入れて行きていくようなものだ。


でも、私たちは器自体を作り変えることができるのだったら?その方法を学ぶことができるのなら?私たちの感じることのできるものの範囲と豊かさは、無限に増えるだろう。好きな器を作って、好きなものを入れて味わい、また入れ替えて味わい、あるいは何も入れないで器も味わう。また器を作り変えて、味わう。時には、何の器も作らないという楽しみ方もできる。器から作る料理人よろしく、クリエイティブに人生を作って、そして、それをまるっと味わう。


ところで、器や料理を作り替えたい時には、陶磁器みたいにわらなくても、残飯を残さなくても、魔法のようにそれらを消す方法も同時に学ぶことができる。


私たち人間はそんなことができるのだ!ということを学んだのが、アバターコースだった。その方法を実際にトレーニングする9日間でできている。そんなクリエイティブな人生の味わい方を楽しみたい方は、ぜひご一緒に。


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