Toshiko Kamada
度肝を抜く
自分の持ってる引き出しに収まらないものをどうするか。
無視することもあれば、取っ組み合って格闘することもある。
ごく稀に、そのどっちもできなくて、どうしようもなく自分を貫いてしまうものがある。
引き出しでできている自分がこっぱみじんになるような、そんなものと出会ってしまうときがある。
アバターという教材がもたらした経験は、私にとって、その最大なものだ。
この身のまま生まれ変わったと言ってみたりするが、うまく表現できているとも思えない。
その成果も、その意図するところも、度肝を抜くものだった。
一人で知っておくには重要すぎると思うから、みんなに伝えたいのだが、
これほど伝えにくいものはない。度肝を抜かれるほどすごいと言っても、なんのことかわからない。
噛み砕いて説明すると、ある程度「ふむふむ、なるほど」となるが、すごさが伝わらない。
経験してもらうしかない、自分で見つけておくれと、投げ出したくなるが、
とても自分だけで持っておくわけにはいかない。
25年も思うように伝えられずにいるのだ。
二日前「太陽の塔」の映画を見た。小3で行った万博で見た太陽の塔、あんなものは一度見たら決して忘れられない。
一体、あれは何なのか?に迫るドキュメンタリーだと思ったが、激流のように語られる様々な観点に刺激されて、
岡本太郎が人々に迫った何かが見る者の中であぶり出される映画だ。まさに度肝を抜く創造物だったが、48年前の人々の多くには理解できなかったのではないか、そして私たちも、と語られる。私の中では、スクリーンの中の太陽の塔が、s.キューブリック監督の「2001年の宇宙の旅」に出てくるモノリスと重なっていた。まあ、モノリスよりは太陽の塔の方がずいぶんわかりやすい。
「2001年の宇宙の旅」が投げかける人類の進化への問いと、岡本太郎がいまの進化には懐疑的だと言って私たちに残した、生の感覚。ご自分の中で、これらの点と点を感じ合わせていただけるなら、アバターを感じていただける1つの糸口になる方もいらっしゃるだろう。
アバターは、生の息吹を蘇らせるものだということもできると思う。意識の仕組みを自ら学び直すプロセスの中で。
そして、この意識というものに馴染んで行くに従って、宇宙とか、進化とか、そして度肝を抜くようなアイデアに対して、より理解が深まって行くような感じがする。全てはこの意識というものの中で起こっていることなのか。
普通、人がアバターに出会うのは、自分の人生で起こっている何かを解決したかったり、より良くしたかったり、そういう動機からそれに役立つプログラムとして探し出す場合が多いだろう。もちろんそれはできるし、一生役に立ち続けるだろう。しかし、それがそうなのは、アバターが何に関するものかということが、度肝を抜くほど広大だからではないかと思っている。
アバター教材の著者ハリー・パルマーが「アバターってなんですか?」について応じた答えの1つは、
「アバターとは現在、過去、未来のあらゆる現実に関することです。これではあまり説明になっていないでしょうが、私ができる最も真実に近い表現なのです。アバターでは創造を扱いますが、創造を私は「空間、時間、または<気づき>の中に限定や限界を持つあらゆるもの」として定義しています。それは宇宙とその中にあるもの全てを網羅しています。大抵の人はそこまであらゆるものを含んだレベルでアバターに取り組む用意はないので、通常私は信念についてのはなしをします。(続く)」(「覚醒の7つの柱」より引用)
この度肝を抜くような冒険の旅に興味がある方は、まず9日間のアバターコースを受けてみてほしい。それが旅の始まりだ。どんな旅になるかは全くわからない。
「宇宙の中に生命が存在することが奇跡なのではありません。生命の中に宇宙が存在することが奇跡なのです。
宇宙の進化から意識が生まれたことが、奇跡なのではありません。意識の進化から宇宙が生まれたことが奇跡なのです。
(続く)」(ハリー・パルマー「リサーフェシング」より)