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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

内なる水平線を通り抜ける



鳥取砂丘の馬の背と呼ばれる一番高い所に座って、鉛色の日本海の水平線の、そのずっと向こうに思いを馳せていた。

海と空をへだてるこの一本の線。

あの向こうにも海が続き、人が住む。

あの線の向こう側があるのだ! という胸の熱さが、田舎の封建的な雰囲気を、自分を縛る制限だと感じていた子供の頃の私には、自分を突き動かす原動力だった。


以来、何かに制限を感じると、私は、それはとりあえずほったらかして、知らないところへ、新しいところへ、線の向こう側へと動き続けた。それが私にとっての挑戦であり、冒険だったのだ。新しい場所はいつだってワクワクした。


ところが、どこまで水平線を超え、地平線を超えても、私を縛る制限はなくならなかった。制限というものは、環境の中にあるのではなく、自分の中にあるのだと気づいたのは最近のこと。ならば超えなければならないのは、私の内なる水平線ということになる。そしてこっちの水平線を超える方がなかなか大変だった。


何かと何かを隔てる境界線、縁の魅力は何度か綴ったことがある。

敷居と縁側 https://note.mu/toshikokamada/n/n0d43aaf720a2

境界線をいったりきたりすること https://note.mu/toshikokamada/n/nfccc77ff8424

水際のこと https://note.mu/toshikokamada/n/nd0319d60b00f


内なる水平線、そうだ、それはあの「とりあえずほったらかした」ものたちだった。

砂丘の風に吹かれてまだ見ぬ異国を夢見、そして異国で住んで見ることだって楽しいことだったが、私を縛ると信じていた田舎の封建的な雰囲気を直視して、それは本当は一体なんなのか?「私を縛らないで!」という心の叫びは一体なんなのか?

その中を通り抜けながら、その向こう側へ行くには特別な勇気が必要だった。


けれど、ひとたび、この内なる旅をしてみると、それはどこよりも遠くへ行けて、そしてもっとも深い故郷へ帰るような旅となった。


そして、これは、誰もがいつかはする旅だと感じている。

この旅を一緒にする仲間を、私はいつも探している。


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