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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

それは、本当に自分で考えたことなのか?



”人の話にパセリを添える者になるな。

土の中のジャガイモから始める者であれ。”


高校卒業の前に、担任の先生がクラス全員に自作の長詩を朗読してくれた。

これはその一節だ。

わら半紙に印刷され渡されたその詩は、その後40年、私の岐路で道を照らす光となった。

折に触れ、その超大作の詩の異なる節が、私に迫ってくるのだ。


そして、今日はこの一節だ。パセリか。。


たくさんのことを覚えた。

たくさんの本を読んだ。

たくさん議論し、主張した。

たくさんのことを忘れた。

そして、それらは一体何だったのだろう?


人生は、いろんなやり方で「頭の中から出ろ!」と私に促す。でも、いつもそれに気づけるとは限らない。

実際、本当に自分の植えたジャガイモを掘り出しながら土を触っている時でさえ、私の頭は何やら講釈をたれる。

パセリを添える技能は、今やなかなかのものだ。



アバターコースを受講して、私は、<感じる>ということを、人生に取り戻した。

全く感じなくなっていたわけではない。

感じないようにしたものが自分の内側にたまりすぎて、

感じたい時に感じること、そして感じることと考えることの区別が難しくなっていたのだ。

取り戻したのは、感じているのか、考えているのか、すぐに識別する力。そして、

感じたい時に感じることと、考えたい時にきちんと考える能力だ。


以来、感じる時間は格段に長くなったと思うが、私の<頭>は、そのことが今ひとつ面白くないのか、そう簡単に黙ってはいない。

きちんと感じ、考える能力を向上させることには終わりがないように見える。


「私の口が、何やらペラペラ喋っているが、それは一体本当に自分で考えたことなの?」

「何やらカタカタ文章を書いてるけど、それは一体本当に自分で考えたことなの?」


自分に声をかけ、できるだけ感じて、できるだけ正直に、できるだけ内側から話し、書いてみる。


そもそも、この文を書くことが、パセリを添える行為でなく、自分の中に在るものを、まっすぐ見て、その目でまっすぐ外を観察し、決めた行動を取ることを、自分に思い出させるものになるように。


それができると、自分の言葉は、もう少しユニークな、もう少しかけがえのないものになる感じがする。

同時に、人の言葉も、もっとユニークな、もっとかけがえのないものになった気がする。

この言葉をこの人から聞くことは、この瞬間だけのことなのだ。

この人のこの考えは、この人の中を通って出てきているのだ。

耳を澄ます。

他の何かと似通っているようでも、これは、この人の考えなのだ。


この一節は、自分が語る時へのアドバイスだとばかり思ってきたが、

今日、もう少し自分で考えてみたら、人の話を聞くときのことのようにも思えてきた。

ジャガイモ。。。

本当のその人とつながって聞くということなのかもしれないと。


感じて、考える。きちんと。

それがまた少しできると、世界はいつも新しい。


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