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  • 執筆者の写真Toshiko Kamada

あるアバター体験記 No.1 アバター前

#アバターコース体験談

1994年6月、友人が茨城県取手市で、韓国からアバターマスター数名を呼んで開催した、おそらく日本の地では初めて開かれたアバターコースに、私は参加することになった。

「岐路」というのはこういう時のためにある言葉だろう。

ここから私はそれまで思い描いたことのなかった方向へ進んで行くことになる。


人がどうやってアバターに出会い、その後どう生きて行くか、一人として同じ例はない。

それでも、自分がどうやってアバターに出会い、その後何を感じてここまできたのか、書き留めておくことが、誰かがアバターを見つける役に立つかもしれないので、今日は、今一度振り返ってみよう。(あるアバター体験記はNo.1~3まであります。)



【 アバター前 】


9歳の冬の父の死は、私の人生に強い印象を残した。

「私とは誰?」「なんでここにいるのか?」「これから私はどこへ行くのか?」

これらの問いがBGMのように流れる少し内向的な青春を、その後過ごすことになる。


山陰の曇天と鉛色の海、手仕事や自然の中での暮らしがきっかけになって、引っ張り出されてくる自分の中の野生性。

私は、その野生性が導く方向へと手探りで進んで行った。何か生きた感触が感じられる方向へだ。自分が本当に生きていることの証を、確かな実感を持って感じかったのだろう。


それは、父の死を向こう側に見て、私がいるこちら側の感触を探すことだった。


そのうち「悟りをえる」という概念に出会い、それがこの人生で経験したいことの筆頭に上ってきた。


不思議な縁で韓国へ留学した私は、授業の合間に瞑想や丹田呼吸法を学びながら、そのうち、どうしても自分が想像しているこの「悟り」というものを、経験しないでは死んでも死に切れない、と思うようになる。

結婚、二人の子の出産をへて、子育てを始めた私は、新しい命を育む自分が、なぜ自分がこの人生にいるのかわかっていない、というということが、我慢ならなくなってきた。

それでは自分に母親の資格がないように感じた。この子たちに、一体どんな背中を見せたらいのだろう?何を教えられるというのだろう?


そんな気持ちにがんじがらめになって、八方塞がりだと感じていた時、韓国の友人だちから、アバターの存在を知らされた。

「アバター?それは何?」「ん〜、いいよ」たったそれだけ。

なのになぜか、それが自分の探しているものだという感じがした。

ただ、そうわかった、のだ。


1歳と4歳の子供をはじめて家に置いて、夫と義父母に子供達の面倒をみてもらうように、なんとかお願いをし、定期貯金をおろしてお金をかき集め、「それ、すごく怪しいよ」という周囲の心配の目に見送られながら、私は9日間のアバターコースに出かけた。

32歳の梅雨のこと。(続く)


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