Toshiko Kamada
「考えるしか能のない私」からの脱皮
私は子供の頃から、考えるのが大好きだった。考えるのは一人でできるし、いつでもできる。最高の遊びだった。人と遊ぶより、一人で考えたり妄想にふけっている方が楽しいと感じていた。考えの中ではなんでも自由にできる。この万能感。
でも、口数少ない社交的でない子供は、子供からも大人からもあんまり人気がない。たまに考えていることを明かすと、そんな考えてもしょうがないことを考えて、とバカにされるか、面倒な子だと疎まれる。
大人になっても、考えることが、本当に価値があるとみなされることはあまりない。考えてたって食べていけないよ、という調子だ。じっと考えてることより、行動することや表現することの方が、なんとなくもてはやされる。
考えることで仕事になる哲学者ほどは、考えることもできない私は、考えるということの真価を知らないまま、なんとなく一人で考えながら生きて来た。
そんな中、思考がぐるぐるになる、というのはよく経験することだ。
ぐるぐるになった思考は、たいていぐるぐる巻きのまま、その辺りに放置されている。
ぐるぐるというこの感じ、堂々巡りといってもいい。考えても考えても、どこにも行き着かない感じ。
だいたいは考えることに疲れて、答えがない問いというカテゴリーに入れられる。
でも一度生まれた問いは、心の中でくすぶっていて、このくすぶりが生むもやもやが、ますます霧のかかった思考状態を作り出す。
考える私。そこにあまり良くないイメージをはりつけているうちに、考えることしか能のない私、というぐらいの意味に成り下がっていた。
その考える私が、このところ陽の目を浴びようとしている。考えるという行為も進化するのだという予感とともに。
きっかけは、その名も思考の嵐・ソートストーム®︎という手法。
アバター®︎コースが生まれる前、1986年に現れたもので、「ソートストーム・マニュアル」の副題は、<人類の思考における一つの進化>となっている。個人的には大好きな手法だったが、考えるしか能のない私だと思っている私が、どこかこれを十分に使う態度を持てないでいた。
最近、数名のグループでこのソートストームを続けてやる中で、再び、思考というものの面白さに目覚めつつある。
新しい部分は、一人で考えるのではなく、複数の人と一緒に考えるこの独特のやり方だ。やったことのある人はわかると思うが、ただディスカッションするのではない、マインドリンキングと呼ばれる参加者の意識がつながって、一人では行き着けないところへ進んで行く。途中は嵐のような方向もわからない、どこへ行くのかもわからない、論理を超えた何かの中を通りぬけながら、ちょうど台風の目のように、晴れ渡ったクリアな答えの瞬間へと進んで行く。
個人の意識という限界を超えて、複数の個がその瞬間つながった一つの意識として考えるという可能性。
個人の観点と個人の観点、グループの観点とグループの観点、その相違を超えて、たどり着ける答え。
自分の考えというものが緩み、全く新しい可能性が見えてくる面白さ。
考える主体が、「私」から「私たち」に変わって行くことで創り出せる可能性。
これは、この世界が模索している方向にまっすぐ役立つ手法なのではないだろうか。
思考する力を再評価しながら、興味のある人々とぜひこの新しい思考の形を探検してみたいと思う。
*ソートストーム®︎セッションをグループでやってみたい方はお問い合わせください。
オンライン予約もできます。https://www.dawnavatar.com/book-online
「ソートストーム・マニュアル」という本も入手できます。(¥2200)
(アバター®︎、ソートストーム®︎はスターズエッジ社の登録商標です。同社が全権を保有しています。)