Toshiko Kamada
「ホモ・デウス」読後感〜意識の時代
ユヴァル・ノア・ハラリ氏の書物や講演の明晰さは何だろう?
「サピエンス全史」を読んで彼を知ってから、Youtubeでも彼の話を聞きながら、そこに好奇心を持っていた。
彼の本の読後感の不思議さは、この膨大な情報の大著を読みながら、詳細は覚えられないけれど、ハラリ氏の言わんとするところは、とても明快に伝わって来るところだった。
「ホモ・デウス」も内容は前著を上回って面白い。すごく。プラス読後に残る明晰感再び。
そんな中、彼がヴィパッサナー瞑想を18年の間、毎日2時間していると知った。彼自身こう言っている。「この技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立って来た。」(ホモ・デウスの謝辞)と。また別の講演では「ストーリーと現実を分けるのに役立って来た」とも語っていた。ここで合点がいった。
マインドが語るストーリーを、それとして見ると同時に、ストーリーをのけた現実とは何かをまたそれとして見る。その区別が明確にされることで、この壮大な人類史と未来をユニークな視点で明晰に語れるのだろう。
意識と頭の両方を、よりよく使うためには、この二つがきちんと区別されている必要がある。そして、きちんと区別するためには、意識も頭もそれぞれにトレーニングする必要がある。でも、世の中ではおそらくそれがあまり区別して行われていない。そのせいで、コントロールされていない無意識とコントロールされていない思考の乱気流が、曖昧な<私>という服を着て、気分によっていろんなことを言ったり、したりする。自分の内側についての理解がそんな風なら、ほかの人や世界についての理解もその拡大版になるだけだ。
頭のトレーニングは、意識のトレーニングに比べれば、知識を学び、考えるという形でなされているかもしれない。ところが意識のトレーニングは、される機会は社会の中にはほとんどないために、頭と意識が明確に識別されていないまま、頭が意識のことを語ったりする。そうなると、もう何についての話なのか区別がつかない。
両方のトレーニングが別物だということがはっきり認識されているだけでも、物事をより明晰に見るのを助けるだろう。
「ホモ・デウス」はまさに、この意識という領域を、最後には浮かび上がらせているように個人的には思う。
<意識>というものを、探険し、トレーニングし、意図的に使えるようになること。
それは今こそ、とても大事なことで、また今こそ、それができる時がやって来たということなのかもしれない。
世界中の最先端科学の研究者たちが、意識のトレーニングを本格的にやるとどうなるだろう?瞑想などを取り入れている人は増えているだろう。しかし、意識のトレーニングは思考を静めるだけではない。
ハラリ氏は、アバター®︎という意識のトレーニングがあることを知っているだろうか?
「ホモ・デウス」を読んだ方と、あるいはAIの開発に取り組んでいる人々と色々語り合ってみたいものだ。
#ホモ・デウス #ユヴァル・ノア・ハラリ #アバター®︎ #AI #サピエンス全史